言語と人格

「話す言語によって自分の人格が変わる」「英語を話す時は積極的になるけど、日本語を話すと控え目になる」というようなことを言われているのをたまに聞きます。
単刀直入に言うと、個人的には「それはないな」と思っています。
というのは、私自身が言語によって人格が変わるということがないからです。(笑)
また英語を流暢に話す友達を見ていて、英語を話している時に人格が変わったように思ったこともありません。
ただ、言語の特性によって表現方法が変わるということはあり、それを「人格が変わる」ことと混同しているのかな?と想像しています。

例えば仕事のメールの書き出しは、言語によって異なると思います。
日本語「お疲れ様です」「お世話になっております」
英語「How are you doing? 」「Hope you had a good weekend」
別にこれは、日本語の時に他人をねぎらうようになるからだとか英語になると他人の週末にnoseyになるからだとかいう理由ではなく、単に相手とのスムースなコミュニケーションを図るための表現の一つです。
同様に、普段のなんてことのない会話も「より的確に自分の意図・意思が相手に伝わるように」と無意識で表現を取捨選択し、その結果日本語だと少し遠慮気味になったり英語だとやや直接的になったりしているのではないでしょうか。(使える語彙数が限られていて定型文でしか話せないという場合は除きます。)

また、ハイコンテクストの日本語では一から十まで話す必要がない一方で、ローコンテクストの英語では日本語と同じ情報量では意思疎通がすんなりいかない、そういった経験も多いと思います。
そういった場合、相手の文脈文化に合わせた方がより円滑に、もしくはより誤解が少なくコミュニケーションができるので、日本語を話す時とは異なる表現を使うようになってしまい、結果として自分の人格が変わったように感じてしまうのではないかと思います。私はローコンテクストの英語で話す時、ハイコンテクストの日本語を話す時より一言も二言も多くなっていますが、これは英語を話す時にお節介で小うるさい人格に変わるのではなく、単にそうしないとこちらの意図が通じず意思疎通がスムースに行かないからだと自分では思っています。

大学で取ったSpeech Communicationの授業で、コミュニケーションでは話者が思考をコード化(エンコード)して送り、聞き手がそれをデコードすると習いました。
イギリス人と英語で話す時・日本人と日本語で話す時、それぞれにその文脈文化に基いて相手のデコード能力を推量し、それに沿ったエンコードを自分の脳内で無意識のうちにしているのではないかと考えています。
話す言語によって人格が変わるのではなく、話す言語の特性や話す相手の文化に合わせて使用する表現が変わっているだけではないかというのが、私の考えです。

Price:
Food:
Service:
Family Friendly:
Tourist Friendly: